極愛台湾

信仰から見る移民の抗争と融和

現在の台湾は移民国家で、住民の大部分は中国からの入植者と平埔族=いわゆる平地原住民との混血の後裔です。

日本が台湾を領有してから41年後の1926年に行われた総督府の臺灣在籍漢民族鄉貫別調查によれば、本籍を中国に持つとする漢民族住民のうち福建省82.9%、広東省15.6%と、福建省出身者があっとうてきに多いことがわかります。

ただ、気をつけなければならないのは、おそらく純粋な移民第一世だけではないということ。よく、遺伝子的には純粋な漢民族、漢族なんてものはいないうんぬんの理屈を言う人がいますが、漢民族というのは遺伝どうこうは関係なく概念的な民族であって、父系が漢民族なら子孫は全て漢民族だということになっています。この点は大和朝廷成立以後に作られた大和民族という概念も同様です。

なので、漢民族と言っても実際には平地原住民との混血の人も多く、単に父親の本籍を引き継いだ人の本籍も含まれていると思われます。

さて、さらに出身地別に分けると、福建の泉州系が44.8%、漳州系が35.2%と大多数を占めています。

泉州と漳州ではほぼ同じ言葉を喋っているけれど、発音や声調に微妙な違いがあります。それは、現在北部系と南部系の台湾語の違いとして表れています。




それぞれの出身地別に殺し合う

さて、これら移民は日本統治が始まるまでは頻繁に抗争を繰り広げていました。

日本統治以前の漢民族系台湾住民についてはあえて中国人と表現しますが、中国人の「ムラ意識」は日本人以上です。違う出身地の者同士が台湾に集まったことで、縄張り争いで殺し合いをします。これを「械闘」と言います。械闘は、中国からの移民が増える1700年代から増えていきます。

まず閩粵械闘。閩=福建出身者と粵=広東出身者の抗争がありました。およそ150年の間に、wikipediaに載っているだけでも27件。台湾中部から南部まで広い範囲で起こっています。

しかし、閩粵械闘より多かったのが漳泉械闘。同じ福建の漳州と泉州出身者による械闘です。そして、同じ漳州とか泉州出身者同士でも、さらに細かい出身地で争うこともありました。

械闘の原因は、商売の利権の奪い合いなどが多かったようです。

中国からの移民は信仰によって結束していました。それぞれの出身地で信仰される仏菩薩の寺廟を移民先でも建て、そこを中心にコミュニティを作っていたわけです。

そんなわけなので、械闘の影響を受けた寺廟も多いです。

1853年、艋舺で泉州三邑人と泉州同安人との械闘「頂下郊拚」が発生しました。

同安人は負けて艋舺を追われ、信仰していた霞海城隍の神像を携えて大稻埕に逃れて廟を建てました。それが迪化街の台北霞海城隍廟です。

同じ艋舺にある艋舺清水巖祖師廟。

清水祖師を祀るこの廟は泉州安渓人が建てたものです。「頂下郊拚」のおり、三邑人がこの廟を壊せと安渓人に要求しました。おそらく同安人の拠点にされないようにとかそんな理由だと思います。

三邑人は後で修復するからと約束して清水巖を壊させたにもかかわらず、その約束を違えて柱を一本寄付するだけにとどまりました。そこでしかたなく安渓人の間で募金を募り、再建したという経緯があります。

とまあ、これにとどまらずこんなろくでもない原因で破壊されたり移転を余儀なくされた廟はたくさんあります。ちなみに日本統治時代には艋舺清水巖は総督府に接収されて学校として使われました。総督府は統治初期にはいくつかの廟を学校として利用しています。

なんてことを書くと、台湾総督府は結果的に台湾の廟を守ったのだなどとアホなことを言い出すネトウヨが湧くかもしれないので付け足しておくと、台湾総督府も寺廟整理という名目でかなりの量の道教廟を破壊しているばかりでなく、神像の焼却などといった弾圧を行っています。総督府に退去を命じられて破壊され、その後何一つ補償がなかったので仕方なく信徒が協力して別の場所に再建したという廟はたくさんあります。

それはさておき、日本人というより強力な統治者が出現するまでは、中国からの移民たちは移民してきた台湾で好き勝手に殺し合っていました。

日本統治下で械闘が減る

日本の台湾統治は、日清戦争の結果として日本と清国の間で決められ、当の台湾住民の頭越しで行われました。

その結果3つの反応が現れます。まず清国官兵による抵抗、台湾住民よる抵抗、そして台湾住民による受け入れです。

まず台湾を統治していた清国人は日本の領有当初とりあえず反抗しました。当時台湾巡撫だった唐景崧は台湾の独立を宣言して台湾民主国を建国し、総統になります。しかし配下の清国兵の士気は低く、駐留してきた日本軍になすすべもありませんでした。中国に故郷を持つ兵士たちや台湾民主国の首脳たちはこぞって中国に逃げ帰っています。唐景崧自身も総統の座を捨てて厦門に逃げました。

そうした弱兵の形ばかりの抵抗とは反対に、非常に強力だったのが原住民や台湾に根をおろした民間人による抵抗でした。特に、現在の新北市三峡で起こった分水崙戦役では、三峡に攻め入った北白川宮能久親王麾下の近衛師団山根信成少将の部隊が客家人の義勇軍に迎撃され、大敗を喫して逃げ出しています。近衛師団は逃げ出す際に三峽長福巖祖師廟を焼き討ちしています。

精強な義勇軍とは異なり、弱兵の清国兵は逃亡しつつ略奪も行いました。中国人の兵士としては平常運転です。そこで積極的に日本軍を受け入れる住民も出ました。迪化街の豪商・李春生は商人たちと協議のもと辜顕栄を使者に立て、日本軍に恭順の意を示して治安の回復を願い出ました。

これを境に、漢民族住民同士の械闘はなくなっていき、その矛先は総督府に向きます。日本の台湾統治前半は、北埔事件や西来庵事件などといった抗日武力抵抗が発生しました。

しかし総督府による教育が行き渡ったことで台湾が日本なみの文明社会になっていくと武力抗争はなりをひそめ、蒋渭水や林献堂などによる政治運動に変化していきます。

こうした流れの中で、中国のどこどこ出身という小さい枠組みでの争いはなくなりました。もちろん世代が更新され台湾で生まれ育った人が増えたという理由もあるでしょう。

日本統治下における政治運動の中で「台湾人」という新しい認識も生まれました。

現在の道教廟に見る台湾人の融和

日本でも有名な士林夜市は、元々は士林慈誠宮の門前夜市として発生しました。現在も士林慈誠宮の前には屋台街が広がります。

この士林慈誠宮もまた、漳州人と泉州人の械闘により焼き討ちに遭ったことがあります。

その士林慈誠宮ではおもしろいものが見られます。

一つの廟に漳州人の守り神である開漳聖王と、泉州三邑人の守り神として持ち込まれた廣澤尊王がいっしょに祀られているのです。



士林慈誠宮:上開漳聖王、下廣澤尊王

同じ士林の芝山巖惠済宮は主祭神が開漳聖王であり、ここにも廣澤尊王が祀られています。



芝山巖惠済宮:上開漳聖王、下廣澤尊王

また、開漳聖王を主祭神とする基隆の奠濟宮には、泉州人が信仰する田都元帥も祀られています。



奠濟宮:上開漳聖王、田都元帥

移民の間での出身地による諍いがなくならなければ、こういうことにはならないはず。

日本の統治がこうした融和を生む一つの契機になったのは間違いないと思われます。

だからといって日本のように同調圧力で一つの枠に押し込めようとはせず、多様性を認めてそれぞれを尊重するのが、現在の台湾のすばらしいところでしょう。

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