李登輝先生が逝去

台湾元総統李登輝先生が本日7月30日台湾時間19時24分(日本時間20時24分)逝去されました。

李登輝先生は今年2月に牛乳を誤嚥し、肺炎を起こして入院。治療を続けていました。

本日午前9時半ごろ、状況が悪化したとの知らせを受けた蔡英文総統、頼清徳副総統、蘇貞昌行政院長が病院を見舞い、最期のお別れをしたようです。

李登輝先生は日本統治時代の大正12年=1923年生まれ。

旧制台北高等学校卒業後、京都帝国大学(現京都大学)農業経済学科に入学。在学中に学徒出陣により陸軍に入隊。入隊時に、最も過酷だという歩兵を志願するものの砲兵隊に配属。しかし戦地に向かうことなく終戦を迎えます。

終戦後は台湾大学に入学。卒業後はアメリカのアイオワ州立大学に留学して農業経済学の修士を取得。

台湾に帰国して農業技師となります。

1965年には再びアメリカのコーネル大学に留学し、農業経済学の博士号を取得。

帰国して台湾大学の教授となり、農業技師としても働いています。

1971年、蒋経国の勧誘によって国民党に入党し、蒋経国政権下で農政に携わります。

1978年には、台北市長、1981年には台湾省の主席に任命。

そして、1984年本省人として初めての副総統に指名されます。

1988年に蒋経国が死去すると、臨時総統に就任。

1990年に行われた国民党の党内選挙で正式に総統に選ばれます。

1991年、白色テロの根拠として台湾人弾圧に利用されてきた動員戡乱時期臨時条款を廃止。

そして1996年、国民による総統直接選挙を実現し、武力に頼ることなく台湾の民主化を達成しました。

2000年の総統選挙では出馬せず、国民党が敗北した責任を問われて国民党主席を辞任。

その後政治の表舞台に立つことはなかったものの、台湾独立運動、台湾正名運動には積極的に関与し、政界にも隠然たる影響力を与えてきました。

日本統治時代の国語家庭(皇民化運動により台湾語の使用が制限・弾圧され、日本語を用いる台湾人家庭が優遇された)に育ったため日本語に堪能。日本人とはまったく不自由なく日本語で会話ができました。

台湾客家の家庭ではありつつも、日本語以外では客家語ではなく台湾語を話し、総統職をおりて以降は台湾人に話しかけるときは主に台湾語を使っていました。

日本統治時代については、特に教育の普及や社会の近代化を高く評価。蒋氏政権時に中国史が中心だった台湾の歴史の授業を台湾の歴史中心に改、その中で日本による統治の負の部分とともに正の部分も併記するようになりました。

中国との関係は「特殊な国と国の関係」として初めて中国と台湾がそれぞれ別個の国家であるという認識を示し、総統職を継いだ陳水扁はそれを敷衍して一辺一国論を展開しています。

李登輝政権から陳水扁政権にかけて台湾と中国は別の国であるという認識が台湾国民にも広まり、台湾アイデンティティーが涵養されることで、今日の天然独世代が生まれる礎となりました。

ここ数年は、病気や転倒による怪我などで入院を繰り返していましたが、それでも蔡英文総統を支持し続けていました。

李登輝先生は、国民党による占領支配下の台湾を民主化にまで導いた不世出の政治家であり思想家で、ブレることなく台湾のために働き続けた人でした。

李登輝先生は亡くなりましたが、その精神・思想は弟子とも言える蔡英文総統、林昶佐立法委員などに受け継がれています。

享年98歳。衷心よりご冥福をお祈り申し上げます。

昨年の史明先生、高俊明先生、今年の宗像隆幸など台湾独立運動の重鎮が相次いで亡くなって行く中、独立派最大の精神的支柱であった李登輝先生の逝去は非常に大きな痛手です。

しかし、そうした先人の努力が実を結び、台湾人の中に台湾アイデンティティは確実に育ってきています。