台中の日本時代の建築物

日本人はよほど歴史的な、もしくは資産的な価値があるものでなければ古い建築物はぶっこわして新しくしてしまいます。台湾人の場合は物持ちがいいというか、使えるものは古くなっても使うので、建物も日本時代のものどころか、清朝のころの建物が残っているのも珍しいことではありません。

台湾人は「縁」を大切にする

台湾語には「有縁無縁」という言葉があります。世の中は縁で結ばれていて、縁が有ることを大切にし、縁が無くなってもそこに執着しないというようなことを表します。だからたとえば人間関係でも、しばらくの間連絡しなくても特に気にしないし、久しぶりに連絡しても連絡していなかったことを咎めたりせずに以前と同じようなつきあいをしてくれます。

物を大切にする気持ちはあるけれど、もし壊れてしまったらそれは縁が無くなったものだとしていつまでも惜しんだりしません。

しばらく連絡しないと「不義理」だとして咎めて、何か壊れたらぐじぐじ惜しむ日本人とは正反対の性質だと言っていいでしょう。

台湾には総統府から小さな日本家屋まで日本時代の建築物がいっぱい残っており、適当に歩いていれば探さなくても目にとまります。リノベーションを経て使われているものもあれば、朽ちた廃墟になっているものもあります。台湾中部の中核都市・台中もそうした傾向が強く、特に街を象徴するような日本時代の建築物は、そのまま使われていたり補強を入れて再利用されていたりします。

その象徴が旧台中駅駅舎。

台中駅は明治38年=1905年に開業しました。これは日本が台湾を領有してからちょうど10年後にあたります。この旧駅舎は大正6年=1917年に建てられた2代目駅舎で、現在の3代目駅舎が完成する2016年まで、ほぼ100年の間現役駅舎として使用されてきました。新しい駅舎が完成してからも取り壊されず、中にも入ることができます。現在旧駅舎前は広場として整備されています。

台中駅旧駅舎と並んで台中の象徴と言えるのが、旧台中市政府庁舎です。

こちらは大正2年=1913年に建てられた台中駅旧駅舎よりも古い建物。日本時代は台中州庁舎として使われ、戦後も台中市政府庁舎として2010年まで使われていました。

新たな台中市政府庁舎が完成した後、2020年に現代美術館として再利用される予定です。

2018年10月時点では、まだ中を見学できました。しかし美術館として生まれ変わる前に工事が入ると思われるので、往時のままの姿を見られるのはおそらく今年2018年いっぱいぐらいになるのではないかと思います。

ちなみにこれは2004年、まだ現役庁舎だった時代のもの。レンガの部分まで白く塗られています。

今はだいぶ色が落ちたりよごれたりしています。美術館になったらまたきれいに塗られるでしょう。

旧台中市政府庁舎の前には旧台中市役所庁舎があります。こちらはさらに古い1911年建設。

2004年当時はちょうど改修工事中でした。

2013年ごろはイベントスペースとして使われていました。

2018年10月に訪れたときは扉が閉ざされており、たまたま休業日だったのか今は使われていないのかは不明です。

日本時代そのままの姿で今でも使われているのが、合作金庫銀行の台中分行です。こちらは台中州立図書館だったもの。昭和4年=1929年建設で、戦後も図書館として利用されていました。その後合作金庫銀行に売却されています。合作金庫銀行は戦時中につくられた台湾産業金庫を引き継いだ銀行です。

合作金庫銀行の近くにあるのが黄小児科。

こちらは2004年に訪れたとき、外側を撮影していたら中から出てきた人に中も撮っていいよと言っていただいたので、撮らせていただいたものです。

台中市第二市場。台中駅旧駅舎と同じ1917年に作られた市場です。旧称は「新富町市場」。高級衣料品などを扱う、市場というよりは現在のデパートに近い富裕層向けのものだったようです。

その中心に建つのが六角楼。

二階は資料館になっており入ることができます。

天井を見上げると六角形なのがよくわかります。

そして一階部分は現在でも現役の市場として使われています。日本時代とは異なり、台湾らしい庶民の台所となっています。

最後に、日本でも有名な宮原眼科。大正16年=1927年に日本人眼科医の宮原武熊さんがここに眼科を開いていました。

宮原先生は日本の敗戦によって引き上げ、その跡地を国民党政府が台中市衛生院として利用していました。

その後、お菓子メーカーの日出が買い取り、リノベーションを経てお菓子屋さんとして運営されるようになりました。

内部は大部分が作り直されているものの、一部に建築当時の部分も残されています。

ここで紹介したのはごく一部。台中はそんなに広い街でもないので、歩きまわっているうちにこうした建物にぶつかるはずです。