今日は台湾が中華民国に支配された「淪陷節」

本日10月25日は、台湾では「光復節」となっています。これは、1945年の10月25日に、中華民国政府が台湾を領土に組み込んだ宣言をした日であることが根拠になっています。しかし、本当の意味で台湾を愛している人たちにとっては、台湾が「光復」した日などではなく「淪陷」つまり外来統治者に陥落した日です。

台湾独立運動の巨頭・黄昭堂先生

黄昭堂先生は日本統治時代の1932年に台南で生まれ、台湾大学を卒業後、1958年に東京大学に留学、社会学博士を取得しました。しかし日本で台湾独立運動を行ったため、国民党のブラックリストに載せられます。台湾に戻ることができなくなった黄先生はそのまま日本に残り、聖心女子大学、東京大学などで教鞭を執りました。1976年には昭和大学の教授となっています。

1992年、李登輝先生が総統に就任してブラックリストが解除されたために、台湾に帰国。台湾独立建国聯盟の主席に就任し、以降台湾での独立運動に従事してこられました。

私は一度だけ黄先生にお目にかかったことがあります。といっても訪問団の末席に加わらせていただいただけの話でお話もしていないのですが。

実際に見る黄先生は、容貌魁偉にして豪放磊落、まさに英雄の相を持つ大人物でした。

その黄先生は2011年に急逝されました。

つい先日の9月21日、黄先生の故郷・台南市の七股区龍山里海岸遊憩区内に、黄先生の銅像が設えられた黄昭堂紀念公園がオープンしています。

黄昭堂「淪陷節」に語る

中華民国が定める「光復節」の今日。台湾独立建国聯盟の公式Facebookには、その50周年であった1995年に発表された黄昭堂先生の“台灣「淪陷節」感言”が掲載されました。ここには台湾の歴史、地位、現状などが簡潔にわかりやすくまとめられており、台湾に関心を持つ全ての人が読むべきだと思われるので、まず訳文を掲載し、後に原文を引用します。

以下訳文

1895年台湾は日本帝国に占領され、1945年10月25日に中華民国に占領された。台湾は過去100年の中でそれぞれ50年ずつ外来政権の手に堕ちたのである。2回目の陥落50周年(1995年)の記念日、外来政権はこれを「光復」とみなしている。だが台湾人は台湾の過去を見直し、新たな台湾を創造する決意をすべきであろう。3度めの陥落にみまわれないためにも。

実際には台湾が(訳注:外来政権に)陥落するのは2度にとどまらない。本来原住民に属するものだった台湾は、17世紀に世界に認識された後、繰り返される陥落の歴史の深みに踏み込んでいく。1度目はオランダ、スペイン。2度めは鄭氏王朝。3度目は清朝。4度目は日本。5度目は中華民国である。

台湾に原罪があるとすれば、それは東南アジアの交通の中枢にあったこと、肥沃な土地と温暖な気候であったことだ。原住民の人口は少なく、台湾の人口は中国沿海の零落した移民の流入から原罪のよな組成になっていった。それゆえに共同意識を構築するのは困難であった。

新しい侵略者の侵攻にも台湾住民は死を賭して防衛せず、支配者の変動は侵入者とそれまでの統治者との抗争にすぎなかった。台湾住民が命のはかなさを嘆いたところでどうなるのか?支配者が変わったとき、民衆はいつも反抗の旗印をかかげながらも、その実(訳注:新支配者を)歓迎するような輩ばかりで、大多数の住民は事なかれ主義で傍観するばかりだった。

様々な台湾史の著述を見ても、外来政権に抵抗した志士を見つけるのは難しい。本当に「台湾」のために戦った志士は非常に稀で、ほとんどは台湾本土とは無関係の主人のために戦っていた。これは台湾史の上で検討し直さなければならないことで、台湾本土の新進歴史学者の研究と評価を待ちたい。

台湾は古来より中国に属していなかった。台湾が中国の手中に堕ちたのは、1945年、中華民国政府が連合国最高司令官マッカーサーの命により台湾を占領したのが嚆矢となる。清朝は台湾を200年統治した。だが、それは中国史家が認めるごとく、異民族の中国侵略と同様に、異民族の満州が台湾を占領したのに過ぎない。中華民国の国父孫中山も満族を「韃虜」だと言っていたではないか?台湾は中国とともに異民族に支配されていた仲間に過ぎない。中国が、清朝が台湾を支配していたことを根拠に台湾の領有権を主張するのであれば、それは奴隷が自分より弱い奴隷を主人のために捧げているようなものである。

1945年10月25日、中華民国政府は台湾を版図に加えたことを宣言した。もし台湾が中国の領土だというのなら、この日が最初であった。だが、中華民国は1949年の10月1日に中華人民共和国の成立によって中国大陸から消滅し、中国沿海のいくつかの島に落ち延びた。その時点で台湾は中国から分離している。台湾が中国に属した(正確に言うならば中国に統治された)のは、1945年から1949年の4年間に過ぎない。

中華民国政府は台湾に遷移した。だが、本当に中華民国の領土だと言えるのは、金門島、馬祖島などの島嶼のみである。中華民国はただの「金馬国」だとしか言いようがない。

中華民国は1945年に台湾を占領した。これは軍事占領であって、永久に領有したわけではない。実際のところ、アメリカ軍の日本占領と同じ性格のものだった。中華民国が台湾を領有しようというのであれば、国際法上の根拠、条約上の根拠が必要である。だが、1952年のサンフランシスコ平和条約及び日華平和条約では、日本は台湾を放棄することのみが規定されており、台湾を中華民国に割譲したわけではない。

では台湾はいったいどこに属するのか?日本政府の立場は「日本はすでに台湾を放棄した、台湾がどの国に属するのか日本政府は関知しない」である。

台湾は無主の地になってしまったのか?

そうではない。国連が定めた国際人権規約の第一条に明確に「その政治的地位を自由に決定し並びにその経済的、社会的及び文化的発展を自由に追求する」権利があると記されている。つまり、台湾人には台湾の将来を決定する権利がある。だが台湾人はこの条文に拠って中華民国からの支配を選択したのか?

台湾100年来の2度めの陥落の日、全ての台湾人はどこへ行き何に従うべきなのか自問すべきだろう。

10月10日の「国慶節」、10月25日の「光復節」、いずれも占領政権である中華民国が定めたものであり、日本人としてこれを祝すのがいかに滑稽で愚かなことか、これを読めばわかるはずです。

では以下原文を引用します。

1895年台灣被日本帝國占領,1945年10月25日台灣被中華民國占領,台灣在過去一百年之中,前後淪陷於外來政權之手兩次,期間各為50年。在這第二次淪現50週年的紀念日(1995年),卻被此外來政權視為「光復」,台灣人應該檢討台灣的過去,並且決心重新創造台灣的將來,以免第三次淪現的來臨。

其實;台灣不只於淪現兩次,本來屬於原住民的台灣,在17世紀被世界認識之後,其歷史就步入一再淪現的深坑。第一次是荷蘭、西班牙,第二次是鄭氏王朝,第三次是滿清,第四次是日本,第五次是中華民國。

台灣的原罪是地理上佔據東亞交通的中樞,擁有肥沃的土地與溫暖的氣候。原住民人口稀少,台灣的人口靠由中國沿海零落的移民與難民的流入,才逐漸聚積成現今的組成,因此難以凝聚共同意識。遇到新的侵略者入侵,台灣住民則沒有誓死捍衛的對象。朝代的變動只有入侵者與舊的統治者之爭而已。台灣住民自嘆命薄,又奈何?每次朝代變動之際,總有民眾起而揭竿而起,卻只有額手稱慶之輩,而大多數的住民卻袖手旁觀,若無其事。

從各類各樣的台灣史著,吾人不難發現所謂抵抗外來政權之志士,但是真正為「台灣」而戰的志士去寥寥無幾,而幾乎是為他們與台灣本土無關的主人而戰之輩。台灣史上有重新檢討之處,這有賴於台灣本土新進歷史學者的研究與評價。

台灣自古不屬於中國,台灣淪陷於中國手中,是以1945年中華民國政府奉聯合國軍最高統帥麥克阿瑟之命占領台灣為嚆矢。滿清治台二百餘年,其歷史性格正如中國史家認為異族侵華一樣,是異族滿清侵台。君不見,中華民國之國父孫中山不是界定滿清為「韃虜」嗎?中國不過是與台灣同樣,被異族統治的夥伴而已。中國若據以主張台灣在滿清時及屬於中國,不外是大奴隸自己抬舉為小奴隸的主人而已。

1945年10月25日,中華民國政府片面地宣布將台灣納入中華民國版圖,如果說台灣是中國的領土,正是從這一天開始。但是中華民國於1949年10月1日,由於中華人民共和國的成立,而從中國大陸上消滅,流落到中國沿海的幾個零落的小島。自始開始,台灣與中國分離了。台灣屬於中國(正確地說,被中國統治)不過是1945年到1949年這四年而已。

中華民國政府本身雖然遷移到台灣,但是真正屬於中華民國的領土是金馬等島嶼,中華民國不過就是「金馬國」。
何以言之?

中華民國雖然於1945年將台灣占領,這是ㄧ種軍事占領,不是永久性的領有,其法律性格同於盟軍派出美軍占領日本。中華民國要領有台灣必須有國際法上的根據,也就是說必須有條約上的根據。但是1952年生效的舊金山對日和約與華日和平條約,只規定日本放棄台灣,並沒有規定割讓台灣給中華民國。

那麼台灣應該屬於哪一國呢?日本的官方立場是:「日本已經放棄台灣,台灣屬於哪一個國家,日本並不知道」。

台灣變成無主之地了嗎?

不是的;聯合國制定的國際人權規約(國際人權盟約),亦即是國際法,其第一條即明文規定「所有的人民(all the peoples)有決定其政治將來的權利」,也就是說台灣人有決定台灣的將來的權利,台灣人會根據這個條文來選擇被中國統治嗎?

在台灣百年來第二次淪陷之日,每位台灣人必須自問;台灣人應該要何去何從?