鄭成功を台湾の英雄扱いするのは的外れにも程がある

鄭成功は倭寇の大物・鄭芝龍と日本人女性・田川マツとの間に生まれた日中ハーフの人物で、7歳まで母とともに長崎の平戸で、7歳以降は父が拠点とする福建で育ちました。幼名は福松、名前は森。鄭森が本名です。

倭寇というのは海賊と貿易商人の兼業のようなもの。普通に貿易をすることもあれば、略奪もすることもある。略奪したものを商品として売ることもあります。鄭芝龍は鄭森がまだ平戸にいたころに福建巡撫熊文燦からの招安を受けて明に降り、海防遊撃となりました。要するに非合法軍事組織が政府に利用される側にまわったということ。水滸伝で梁山泊の強盗が宋朝に降って遼との戦いに使われたようなものです。

鄭芝龍はその一方で福建から今の台湾の嘉義のあたりに漢人を入植させ、地域の開発なども行っています。それとともに当時台南を支配していたオランダと貿易を行っていました。

7歳に福建に渡った鄭森は、15歳のときに科挙の地方試験を受ける権利を得られる生員となっているので、科挙を目指していたものと思われます。ヤクザの親分が息子をいい大学に行かせようとするようなものでしょうか?

明朝滅亡

鄭森20歳のときに、李自成が北京を占領して明が滅びました。その李自成も満州族に北京を追われ、農民に討たれるという明智光秀的な最期を迎えます。そこで南京の朱由崧が即位し明帝を名乗ります。この政権は歴史的には「南明」と呼ばれます。しかしほどなく南京も清軍に滅ぼされ、朱由崧は殺されます。

それを受け、今度は福建で朱聿鍵が鄭芝龍、黄道周にかつがれて皇帝に即位しました。これがいわゆる隆武帝です。鄭森は父を通じて隆武帝に謁見し、このときに気に入られて朱姓を賜ります。「国性爺」と呼ばれるのは明朝朱家の姓を賜ったからです。

ただ鄭森は実際には朱を名乗らず、これ以降鄭成功と名を改め、隆武帝の麾下に入ります。

鄭芝龍は「反清復明」の兵をあげて清に抵抗するも、福建を攻めた愛新覚羅家の博洛に官位と俸禄をもって誘われ、清に降りました。しかし、鄭成功はそれをよしとせずに抵抗を続けたために鄭芝龍は人質とされ、鄭成功を降伏させようとするものの失敗に終わって監獄に入れられます。

忠義を貫くと「大和魂」?

ここで鄭芝龍が清に降ったのに対して、鄭成功が抵抗を続けたことについて、菊池寛が『海外に雄飛した人々』で日本人の血を引いているゆえにあっぱれな大和魂・忠義一徹であるみたいなことを書いているようですがちゃんちゃらおかしいですね。朱聿鍵は確かに朱元璋の直系ですが、明朝最期の皇帝崇禎帝は自死しており、朱由崧も朱聿鍵も勝手に皇帝を名乗っただけです。おそらく印綬もなかったでしょう。蜀漢を建てた劉備と同様戦乱を長引かせただけです。

旧主に背かず仕えたから大和魂っていうのも噴飯ものです。一度仕えたら他の主君には仕えないなんていう「忠義」が日本で宣揚されたのは江戸時代に入ってからで、戦国時代なんかそれこそころころ主君を変える武将なんて普通のことでした。

逆に「忠臣は二君に事えず」というのは春秋時代の田単から出た言葉で、さらに遡れば殷を滅ぼした周に対して「周の粟を食まず」とあくまで殷に忠義を立てて隠棲ののち餓死したと言われる伯夷と叔斉という例もあります。伯夷と叔斉は周公旦を理想とした孔丘にすら讃えられています。

唐代、安史の乱のおりに今の河南省睢陽を死守した県令の張巡、太守の許遠は「双忠」と呼ばれて神様として祀られています。

宋がフビライに滅ぼされたとき、捕えられて、フビライに仕官を求められながらも頑として拒んで殺された文天祥は「ザ・忠臣」として讃えられ、日本人にも影響を与えています。

同じく宋には、宋朝趙家の遺児を立てて亡命政権をつくり、ベトナムの方へ逃れて宋朝の再興を期した張世傑という鄭成功の先輩のような人もいます。ただ、張世傑はベトナムへ向かう船が沈没して死にました。

この例をとるなら、鄭芝龍のほうが日本人的で、鄭成功のほうが中国的忠臣の類型ということもできるでしょう。日本人の血が入っているから忠義の人であったなどという寝言は言わぬがよろしい。むしろ日本人は中国の忠臣から忠義心を学んだのです。

『海外に雄飛した人々』が出版されたのは戦時中の1941年。ならばそこに一定のベクトルがかかっていると見るのは常識です。

鄭成功台湾へ逃亡

隆武帝は結局清軍に攻められ、江西に逃れた時点で捕まります。一方鄭成功はとっとと金門島に逃げました。たいした忠臣です。

隆武帝は獄中で自死します。自死という形で毒でも飲まされたのかもしれません。今度は隆武帝の弟の朱聿��(※金へんに粵)が帝位について紹武帝となり、ほぼ同時に明朝最期の皇帝・崇禎帝の従兄弟にあたる朱由榔も勝手に即位して永暦帝となります。するとなんと、清という強大な外敵を前にして紹武帝と永暦帝は正統を争い戦争を始めます。鄭成功はそのころ金門、福建を主戦場としていてこの出来事をしらなかったようです。

で、永暦帝は紹武帝に負けたのですが、紹武帝が清軍に滅ぼされたために負けたくせに棚ぼた式で南明の君主となりました。鄭成功は朱家傍流の朱常清についていましたが、永暦帝の即位を知ると朱常清を捨てて永暦帝につき、延平王に封じられます。朱常清はそのあとすぐに死にました。たいした忠臣です。

金門で蜂起した後負け続けだった鄭成功も、永暦帝麾下に入ってからは戦績を上げるようになり福建から清軍を排除することに成功。そこで危機感を持った清朝は「海澄公」に封じると鄭成功に降伏を呼びかけます。鄭成功はそれを蹴り抵抗を続行。福建から広州にかけての中国沿岸地域を南明の支配下に置きました。

しかし「反清復明」にこだわる鄭成功は諸葛亮と同じ「北伐」という愚を犯します。一時は南京まで攻め上ったものの、敗退して厦門まで後退。台湾でオランダ東インド会社の通訳をしていた何斌の進言を受け、台湾をオランダ人から奪うために金門から澎湖島を経て台南に向かいます。

鄭成功は台南の一部を占領したに過ぎない

オランダ東インド会社が侵略的商社だとはいってもしょせんは商人。鄭成功側は敗残兵とはいえプロの軍隊。さすがに商人は軍隊にはかないません。鄭成功はまず海沿いの砦・ゼーランディア城を落とし、オランダ人を放逐します。

で、このオランダ人を追い出したというのがえらいあっぱれだと讃えられているわけですね。

ではオランダ人がなぜ台南を占領していたか?17世紀初頭、オランダ東インド会社は、極東貿易の拠点とするためにまず澎湖島を占領しようとしますが、澎湖島は明朝の版図であったために追い出されます。そこでしかたなく、台南を占領して拠点としました。当時台湾は明朝の領土ではなかったので、これは黙認されました。「瘴癘の地」台湾など好きにしろというのが明朝の態度です。

明朝の領土でもなかったところへ明朝の遺臣が攻め入って占領したのだから、侵略者という点でオランダ東インド会社と変わりません。プランテーションや経済活動を行っただけオランダのほうがまだ建設的だったと言えるでしょう。鄭成功がゼーランディア城を落としたのが1662年の2月、ゼーランディア城を居城とし、プロヴィンティア城=赤嵌楼に行政府を置いて鄭氏政権を建てました。しかしその同年6月に熱病で死亡します。鄭成功が台湾に関わったのは、攻め入ってから1年ほど、台南占領をしてからだとわずか4ヶ月ほどでしかありません。

鄭氏政権も20年ほどで清に滅ぼされ、台湾は清の版図に組み込まれます。鄭成功は台湾に対してなにもしていません。台湾が清に支配される呼び水を作っただけと言っていいでしょう。むしろ鄭芝龍のほうがまだ台湾の開発などを行っています。

ところで永暦帝はどうなったかというと、ベトナムに逃れて死にました。ただ、鄭氏政権は滅びるまで元号を永暦のまま使っていますから、自ら皇帝として立たずに永暦帝に忠義を貫いていたのは確かだと言えます。

鄭成功を「民族英雄」「国神」に祭り上げたのは蒋氏政権の都合

鄭成功は台湾に入植していた漢人により「延平郡王」という神様として祀られ、その信仰はいまでも続いています。漢人からしたら自分たちを奴隷のように支配していたオランダ人を追い出した鄭成功は英雄でしょう。それに加えて、台湾には戦乱や疫病で死んだ魂を祀らねば悪霊になるという日本の神道に似た信仰もあります。

日本でも近松門左衛門の『国性爺合戦』をはじめ、鄭成功はそれなりに知られた人物だし、母親が日本人ということで、日本時代になっても鄭成功への信仰は許容されていました(もっとも他の民間信仰・道教信仰も総督府に軽視はされていても弾圧はされていません)。

とはいえ、鄭成功は日本時代までは「民族英雄」などという持ち上げられ方はしていませんでした。九州のシンクタンクが出した「旧集落で観光協会をつくって台湾と独自の海外交流」というレポート(追記:現在は削除)には

日本では鄭成功の名前すら知らない人も多いかもしれないが、台湾では今なお英雄であり、孫文、蒋介石とならぶ「三人の国神」として崇拝されている。

などと記されています。この一部はwikipediaの鄭成功の項にも引用されています。で、それをさらに引用して何の疑問ももっていないというブログもあるようですが、常識で考えれば「孫文、蒋介石とならぶ「三人の国神」として崇拝されている」の意味はわかりそうなものです。

鄭成功を「民族英雄」にまつりあげたのは蒋介石です。彼は中国を追い出されて台湾で失地回復を狙った鄭成功を自分にかさねました。鄭成功、孫文と蒋介石を同列の「三人の国神」などとしたのは蒋経国でしょう。これは鄭氏政権と蒋氏政権を重ね、台湾占領を正当化するためのプロパガンダに過ぎません。

そこを理解せずに鄭成功を台湾の英雄扱いするのは無知であるし、日本と台湾の架け橋だなどと考えるのは筋違いにもほどがあります。